日本人の真の姿
綴った日 2012年2月24日


私は、日本人は過去に大きな残虐行為を行なった。
そう思っていた。

だから、政治外交などで、言いたいことも言えないし、
他国の怒りをなだめ謝罪するために、
被害国にお金を払い続けていると思っていた。

私もそう、日本人のほとんどは、潜在意識に、
長い夜、深い闇、そして諦めを持っている。



でもそれは、当たり前ではないか。

だって、私達は日本民族が野蛮で
残酷卑劣だと思っているのだから。

その血が自分自身に流れている。
そう思っているのだから。


その嫌悪感に、すでに生きながらに
殺されているのかもしれない。

なぜならば、日本人は、正義や仁義、
汚れや曲がった事に対して
潔癖なまでにそれらを嫌う。


だから
自虐的になってしまうのも当たり前ではないか?
自己嫌悪、自国嫌悪にさいなまれる
のも当然ではないか?


ここで、胸に両手を当てて、
眉間の奥(第三の眼)に意識を置いて
内観して欲しい。



そもそも、なぜ、正義や仁義に
極めて厚い日本人が、
まるで突然、憑依されたかのように、
まるでゲームの世界に迷い込んだかのように、

そこらじゅうにいる人を笑顔で楽しみなが
らたった数日間で何十万人も殺戮できようか・・・

本当に不思議である。
日本人というものは・・・

そう思って生きてきた。


自分がわかるはずがない。
この国が解るはずがない。

日本の真実の歴史の上に、弱肉強食の勝者が、好き放題
お絵かきをしてまわったんだから。

そのお絵かきを、私達の世代は真実だと
思い込んで生きていた
(未だに多くの者がそうして生きている)んだから。



でもね、やっぱり、ペンキ(偽)は、永遠じゃないから、
必ず、一部どこからかひびが入り、はげてくる。

そしてその奥から、見えてくる真実・・・


大切なこと

ペンキに心の目をフォーカスしていると、
ペンキの世界しか見えてこない。


もう一方の目で、
ペンキの数ミリ下にある、
真実にフォーカスを合わせておく大切さ。

たとえピンボケしていてまだ何も見えなくても、
決してその心を忘れないでいたい。

その心を持ち、その眼を通じて観た分だけ、
、真善美を見る心は、養われるのだから。


戦後、メディアや教育は、
その眼を失明し、迷子になった。

それでも、私達国民の魂は、まだ脈を打っている。

自分の役割を見出そうともがいている。


いままで、その役割とはなにか・・・
何ができるだろうか・・・
そして何もできないでいる
自分に嫌悪し、悩んできた。


そして、真実を希求しているうちに、
ふと思うようになってきた。

既に役割とは、常日頃から表現できるではないか と。



『東北大震災で、取り乱さず配給を待つ
日本人の姿が世界に報道された。』



真実とは、このようなものではないかと思う。

いつも日本人らしく、私達らしく、
最善に、丁寧に、当たり前に、良心をよりどころに毎日を
歩んでさえいれば、必ずそれが真実を伝えるものとなる。


動乱に対して自らも動乱になるのではない。

動乱に対し、日本人らしい生き方を示すことである と。

それは大それたことではないじゃないか。

本来の私達らしいほほえみや、
譲り合いの心。
ありがとうの言葉。
一緒に喜んであげる心。
一緒に泣いてあげる心。

相手が炎天下にあるならば、
自分の日傘をも畳んであいさつをする
礼節。

それを、芯を見失いことなく、
毎日、感謝して丁寧に生きることではないか。

お絵かきが劣化し、見出したほんの少しの真実

それで十分、ピントの合わせ方は解るはず。


先祖の愛が降り注ぐ川。

その清らかで、深い慈悲の川が

この肉体
この精神
この魂を
満たし流れている・・・
その感謝を、その心強さを、

枚瞬舞瞬、改めて感じ入り、
一緒にすごしていきましょう。
一緒に守り抜いていきましょう。


心より、愛と平和を込めて・・・

       かむおん






ー前のページに戻りますー